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#日本の現代史を1年刻みで把握 1935年(昭和10年) ▶岡田啓介 首相 2月 貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃 6月 梅津・何応欽(かおうきん)協定,土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定 8月 国体明徴声明。相沢事件 11月 冀東(きとう)防共自治委員会が成立 小作争議が頻発
2009 民主党仕分け 2015 安倍内閣・平和安全法制 2017 学術会議・軍事忌避声明(≒ネオ国体明徴声明?) →防衛省の研究費辞退や応募自粛 2020 菅内閣・任命拒否騒動 2023 防衛装備庁「安全保障技術研究推進制度」応募倍増 などから ・文理間 ・理工間のほか ・シニアと若手間もギャップありそう pic.twitter.com/iMyzTd6G5o
一部のイメージから大学教員は左翼が多いと思われているようだけど、理工系では事業仕分け以降「もう自民党でいいや」をよく観測する。国民民主党はもうその轍を踏まないだろうけど立憲……
#世界大戦の高校日本史・試験対策 1930年代前半まとめ (3) 1933年 ・斎藤内閣時3月:日本は国連を脱退 ・5月:中国と塘沽[タンクー]停戦協定,満州事変は終了 1934年 ・陸軍パンフレット発行 1935年 ・岡田啓介内閣時,天皇機関説→国体明徴声明 1936年 ・岡田内閣時,2・26事件でクーデター未遂
#世界大戦の高校日本史・試験対策 Q. 「国体明徴声明」 結局は誰の利権が狙い? A. ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD… 立憲政友会・軍部・右翼団体が 天皇機関説を排撃する事で政治的主導権を握ろうとした(天皇中心に自分達の勢力を保持しようとした) そのために岡田内閣に迫り 国体明徴声明を出させた。
返信先:@Ikhtiandr_uouo立憲君主制の外見に奉仕する理論だった美濃部達吉らの天皇機関説を否定さた岡田啓介内閣の国体明徴声明 (1935 年) と文部省の教科書『國體の本義』(1937 年) によって、立憲主義の概観さえ投げ捨てられ、むき出しの専制君主制となった。 twitter.com/ObLaDiOblako2/…
帝国憲法に規定された帝国の政体の 「根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は英国流の『君臨すれども統治せず』でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」。 臣民の権利は主権者たる人民の固有の権利 twitter.com/Ikhtiandr_uouo…
国体明徴声明
しかも、統治権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として当治験を行使するという美濃部達吉の天皇機関説は、前述の貴族院本会議での菊池武夫による攻撃を発端とした軍部皇道派と野党政友会による「国体明徴運動」によって排撃され、岡田内閣の二次にわたる「国体明徴声明」によって否定されて、
しかも、統治権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として当治験を行使するという美濃部達吉の天皇機関説は、前述の貴族院本会議での菊池武夫による攻撃を発端とした軍部皇道派と野党政友会による「国体明徴運動」によって排撃され、岡田内閣の二次にわたる「国体明徴声明」によって否定されて、 pic.twitter.com/aOFI8QeJQG
#日本の現代史を1年刻みで把握 1935年(昭和10年) ▶岡田啓介 首相 2月 貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃 6月 梅津・何応欽(かおうきん)協定,土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定 8月 国体明徴声明。相沢事件 11月 冀東(きとう)防共自治委員会が成立 小作争議が頻発
実際に天皇機関説が国体明徴声明(1935年)で否定された後の高等試験はどうなったのだろうか。それまでは機関説が通説でwikipediaにも ⇒【この取り調べに当たった検事さえもが美濃部の著書で天皇機関説を学び、美濃部が試験官を務めた高等試験司法科試験に合格して検事になっていた】 とある。
「十五年戦争」と呼ばれるように満州事変(1931年)から実質的に中国との戦争は始まっているがそれについての描写はない。五・一五事件も二・二六事件も触れられなかった。寅子等が受けた高等試験の憲法では通説の天皇機関説が国体明徴声明(1935年)で否定されるがそれも描写がない。
「十五年戦争」と呼ばれるように満州事変(1931年)から実質的に中国との戦争は始まっているがそれについての描写はない。五・一五事件も二・二六事件も触れられなかった。寅子等が受けた高等試験の憲法では通説の天皇機関説が国体明徴声明(1935年)で否定されるがそれも描写がない。
話は少しズレますが昭和天皇の戦争責任問題、そもそも軍を統帥する大元帥の地位が憲法上で与えられている事、天皇機関説を投げ捨て美濃部達吉を排撃し天皇主権の国体明徴声明を出してしまった事、聖断で戦争を止められる能力と権威を実行して見せた事、この3点がある以上否定するのは難しいんですよね
一部おかしところはあるとはいえ、『大日本帝国憲法』の文面から読みとれる国家観はその通りではないか? 実運用で異なるから分かりにくくなるが、戦前の政治家で天皇主権を正面から否定できた者はいないし。地方分権もまた、帝国憲法には一切規定されていなかったのは事実。
1935年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が、美濃部達吉議員の天皇機関説を非難しました。 軍国主義が跋扈する世では、天皇を内閣や帝国議会同様、国家の中の一機関とみなすこの説は「不敬」と否定されます。 同年8月に「国体明徴声明」が発表されることで、主権は天皇にあることが強調されました。 pic.twitter.com/lP3fdISoXZ