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本日 5月15日 五・一五事件 1932年 海軍青年将校等が首相官邸等を襲撃したクーデター事件で、当時の首相 犬養毅は銃殺されました。彼等は政治に不満を持ち、軍部中心の内閣を組織するといった国家改造を企てていました。その後は斎藤実が挙国一致内閣を組織し、政党内閣は終わりました。 pic.twitter.com/YeAl1whStL
政党内閣は、外交政策や経済政策の行き詰まり、政争の過熱などから急速に支持を失った。 昭和6(1931)年の満洲事変勃発後、政党内閣が軍部の独走を抑制できず、翌年5.15事件で犬養首相が暗殺されると、政党内閣の時代は終焉を迎えた。 pic.twitter.com/3IUNh1kG0P
(続き) …らずも、この事件で8年間続いた政党内閣(憲政の常道)は終焉。以降の内閣は常にクーデターを恐れて軍部の顔色を伺う状態となり、その暴走を止められなくなっていきました。 満州事変〜二・二六事件に至る1931〜1936年頃は日本政治が最も殺伐とした時期と言うことができます。 ※新暦で統一
大隈重信 何をした 簡単に? 明治・大正期の政治家として、我が国で最 初の政党内閣を組織するなど内閣総理大臣を二度務め、 また、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者として も知られています。 大隈は、総理大臣として統計に関心を持ち、その発展に 業績を残した数少ない人のうちの一人です。 pic.twitter.com/YeXwgtpjDC
#日本の現代史を1年刻みで把握 1918年(大正7年) ▶~9/29:寺内正毅 首相 7月 米の価格が高騰 8月 富山県で米騒動が発生し全国に波及。シベリア出兵 ▶9/29~:原敬(はら たかし)首相 9月 原敬の立憲政友会内閣が成立。初の本格的な政党内閣が誕生 スペイン風邪が流行
#日本の現代史を1年刻みで把握 1898年(明治31年) ▶~1/12:松方正義 首相 ▶1/12~6/30:伊藤博文 首相 6/22 憲政党が結成 ▶6/30~11/8:大隈重信(おおくま しげのぶ)首相 6月 最初の政党内閣である隈板(わいはん)内閣が成立 7月 新民法が施行 10月 憲政党分裂 ▶11/8~:山縣有朋 首相
【大正デモクラシーと政党内閣の成立】 一日にご飯を何合食べる? →自分の食事を振り返る 明治、大正時代の軍隊での一人当たりの米消費量は一日6合とされていた このため当時の人たちにとって米価の上昇は生活を直撃し、米騒動につながったと考えられる。 参考 bimikyushin.com/chapter_8/ref_…
【大正デモクラシーと政党内閣の成立】 寺内正毅首相のあだ名は? →ビリケン宰相 ①外見が似ているため ②人々が期待した政党員の入閣がなく「非立憲」的であったため ②については、その後の原敬首相と対比させると理解が深まる
田中内閣倒閣は、天皇・宮中・貴族院と新聞世論が合体して起きたものだが、政党内閣は本来野党により倒されるのが健全な議会政治。 こうした「政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合」という枠組みは不健全だが、のち「〜勢力」の部分に「軍部」「官僚」「近衛文麿」を代入して再演される
返信先:@15000Tozai大正天皇も山縣有朋も大隈重信も、それぞれ個性がありとてもよい人達です。大正時代に原敬の政党内閣も実現しました。大正天皇は漢詩の名手で李王家に皇族の令嬢まで与える決断をする。長生きされていれば、昭和天皇の苦労は半分くらいですんだと思います。
返信先:@YkTamago25698第一次護憲運動 大正デモクラシー 吉野作造 天皇機関説 シベリア出兵 米騒動 原敬 政党内閣 圭太郎 日本共産党 小作争議 日本農民組合 平塚らいてう 青踏 全国水平社 普通選挙法 満25才以上の全ての男子 治安維持法 憲政の常道 その他etc....
大隈重信 何をした 簡単に? 明治・大正期の政治家として、我が国で最 初の政党内閣を組織するなど内閣総理大臣を二度務め、 また、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者として も知られています。 大隈は、総理大臣として統計に関心を持ち、その発展に 業績を残した数少ない人のうちの一人です。 pic.twitter.com/sn1Wuu4D6Y
➡️続き ドイツの国家元首はヒトラー イタリアはムッソリーニ✨日本の首相は、岡田啓介(3月まで)、広田弘毅 ✨岡田内閣の頃に、二二六事件が 軍部(陸軍の一部青年将校)によるクーデター未遂 本来の姿である政党内閣は形骸化✨米英がそのへんを注視・警戒していたのは明らか ➡️続く
返信先:@waterpolo_jp「単純に私が驚いたのは憲法学者美濃部達吉が、政党内閣や議会主義を支持して一貫していたと思ったら、議会軽視のコーポラティズム路線を堂々と主張していたこと。ひっくり帰りそうになった。」→
ほぼ月1担当のウェブコラム。今回は戦前の二大政党のひとつ、立憲民政党のお話です。人気の浜口雄幸内閣。が、瞬時に「デモクラシー」の春は散ります。政党内閣期よりその先が長く…。 24色のペン:ライオン像と戦前の政党物語=鈴木英生(オピニオン編集部) | 毎日新聞 mainichi.jp/articles/20240…
【竹中治堅】 明治憲法は制度的に政党内閣に制約を課しているにもかかわらず、原敬内閣の時代などは順調な民主化を歩んでいると思われた。しかし、張作霖爆殺事件、ロンドン海軍軍縮条約、満州事変、五・一五事件と連なる過程で軍部の挑戦は高まり、
君民共治の明治憲法だが、解釈は天皇機関説、資本主義、自由主義、政党内閣制、信教の自由(神社非宗教論)であった。ところが加藤玄智の現人神論と上杉慎吉の天皇主権説が陸軍に入り、国体明徴声明でひっくり返され、支那事変以降の総力戦体制と国家総動員体制のもとで強化される。
返信先:@tamakiyuichiro政党は本来、統一した理念の元に結集するはずのものだが、本邦初の政党内閣のときから眼前の党利のために統一性を棄ててきた。政党政治は戦前も戦後も失敗の連続。この度、乙武で国民民主党も失敗、政党の意義を棄てたのは自民党と同じ。日本人に政党政治は無理なのか?もう政党政治は止めませんか?
・「経営戦略と組織変革」松江 英夫先生 5/18 土 13:10‐16:35開始 wuext.waseda.jp/course/detail/… ・「政党内閣制の展開と崩壊1927-36年」村井良太先生 5/20 月 10:40‐12:10開始 wuext.waseda.jp/course/detail/… ・「地球46億年と日本列島の歴史」内田 悦生先生 5/24 金15:05-16:35開始 wuext.waseda.jp/course/detail/…
1898年内閣総理大臣として、初の政党内閣を実現も短命に終わる。他方、伊藤らは立憲政友会を結成し、日露戦争後にかけて藩閥・桂内閣と政友会・西園寺内閣による桂園時代が到来、大隈の憲政本党は停滞する。再び在野に転じ影響力を保つも、1914年76歳で再度内閣を組織、第一次大戦時の政局を担当した。
返信先:@HMS_BlackPrince帝国議会を構成する二つの議院の内一つは「非民選」の貴族院だったり 内閣総理大臣が必ずしも帝国議会の議員の中から議会によって選ばれるわけではなかったり(一時期「運用上」政党内閣制を取られたが一部軍人のテロを契機に終了) 軍隊の統帥に関しては統帥権の独立を盾に政府議会が介入できなかったり
満洲事変も日華事変も現地の暴走から始まり拡大しているので、国民が(プロパガンダを信じて)これを支持したとしても民意で始めたとはいえんやろ。当時の政府は国民に対して責任を負ってないし、政党内閣は昭和の初めに崩壊しているし。
大隈重信 何をした 簡単に? 明治・大正期の政治家として、我が国で最 初の政党内閣を組織するなど内閣総理大臣を二度務め、 また、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者として も知られています。 大隈は、総理大臣として統計に関心を持ち、その発展に 業績を残した数少ない人のうちの一人です。 pic.twitter.com/jyjNajmQrS
返信先:@Toramaru_F他2人私は「勅撰」と書いていますが、帝国憲法下であっても天皇が直接に首相を指名した例を知りません。帝国憲法にもない枢密院の上奏によってです。拒否した例も知りません。政党内閣とは別次元の話です。