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今からちょうど160年前、元治1年6月3日、「政事総裁職松平直克、大将軍徳川家茂に謁し、横浜鎖港断行の急を説き、之に不同意なる要路を罷免して、速に幕議を決すべきを切言す。軍艦奉行勝義邦・老中板倉勝静・同酒井忠績・同井上正直「河内守・浜松藩主」に謁し、鎖港の行ふべからざるを説く」。
今からちょうど157年前、慶應3年5月23日、「大義あり。朝彦親王・常陸太守晃親王・摂政二条斉敬、鷹司輔煕・近衛忠房・鷹司輔政・正親町三条実愛等、参朝す。大将軍徳川慶喜、また所司代松平定敬、老中板倉勝静・稲葉正邦、若年寄大河内正質等を従へて参内し、萩藩処分・兵庫開港の事を奏す。
今からちょうど157年前、慶應3年5月21日、「前福井藩主松平慶永・前宇和島藩主伊達宗城・藩主茂久生父島津久光、登営し老中板倉勝静等と会し、萩藩処分を先にし、兵庫開港を後にすべきを議す。前高知藩主山内豊信、書を上り、疾を以て帰藩を請ふ。23日之を聴す。27日豊信、帰藩の途に就く」。
原田左之助 清河八郎暗殺。 近藤・芹沢たちが鵜殿鳩翁に京都残留を願い出ると、清河八郎暗殺が命じられた。永倉の手記によると、老中の板倉勝静の内意だったらしい。 左之助は近藤、土方、沖田、永倉、井上と共に仏光通り堀川で待ち伏せた。清河が前土佐藩主・山内容堂の元を訪れた帰途を狙ったのであ
今からちょうど157年前、慶應3年5月13日、「前福井藩主松平慶永・前宇和島藩主伊達宗城、幕府の召に依り登営、老中板倉勝静と会し、前高知藩主山内豊信・鹿児島藩主茂久生父島津久光と倶に四人、明日登営して国事を議すべきを陳ず。大将軍徳川慶喜、慶永・宗城を引見す」。
幕末備中松山藩の武士、熊田恰(あたか)名は矩芳(のりよし) 老中板倉勝静の親衛隊長をつとめる。 戊辰戦争の折、備中国にて備前藩と松山藩が衝突寸前となるが、熊田恰の切腹により戦闘は回避され街は戦火を逃れた。 pic.twitter.com/OG5v7dVaOZ