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高校で習った平安時代は、何も無い退屈な400年弱だったけど、 800年頃は、桓武・平城・嵯峨、空海 900年頃は、菅原道真をキーにして 1000年頃は、ちょうど道長の時代 1100年頃は、白河院が院政の真っ最中で、義家・正盛が頑張り 1200年には、時代が変わった。 100年単位で考えると、結構面白い。
例え脩子内親王や祐子内親王、媒子内親王、また延子やその所生の正子内親王、さらに白河院の女御の道子(頼宗の子の能長の娘)や娘の善子内親王の血を引く直系の子孫はいなかったとしても、彼女たちの「生き様」は形になってますし、子孫がいない事で全ては終わる訳ではないのだと主張をしたく。
天皇の任命は最大の権力の源泉であった。白河院(貞仁、融観)は父・後三条院(尊仁)の決めた後継者・輔仁(母・源基子)を排除して、自分の子・堀河院(善仁、母・藤原賢子)、孫・鳥羽院(宗仁、空覚、母・藤原苡子)、ひ孫・崇徳院(顕仁、母・藤原璋子)と後継者を決定し、権力を掌握した。
③冷泉通より疏水へ(左上)、疏水記念館、白河院御在所だった法勝寺趾碑。南禅寺惣門と郵便番号三桁時代の住所表示。 ④粟田口(左上)。道兼は粟田殿とも呼ばれてたのでこのへんに邸第か?知恩院三門、西の町を臨む。念佛結縁柱から五色の綱が御影に繋がる。小学校遠足以来、左甚五郎の忘れ傘と再会! pic.twitter.com/CLHP7GorkK
(日吉社呪詛)。 崇徳院は白河院の胤だとする風説が囁かれる。権勢を失った璋子は、(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。鳥羽院は三条高倉第に駆けつけて璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだという(『台記』)。
璋子は第一皇子(後の崇徳天皇)を出産。 (1123年)正月28日、白河院は5歳になった顕仁に践祚させ、璋子も(1124年)11月24日に院号を宣下されて待賢門院と称した。(1125年)5月に君仁親王を続けて産むが、この両皇子は乳児の頃より障害を持っていた。
母は堀河・鳥羽両代の乳母。(三条家祖)は異母兄、権中納言・通季(西園寺家祖)、左大臣・実能(徳大寺家祖)、大炊御門経実室・公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。幼少時より、白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた。7歳の時に実父・公実を失った。璋子の素行には多くの噂があった。
高松百香・樋口健太郎両氏の研究が示すように、 (a)上東門院故実が摂関家(御堂流)において重視され、 (b)上東門院から白河院への連続性が指摘できる とするならば、 “「正平一統」破綻後の広義門院の「政務」” は 佐藤進一氏が言うような「上皇代わり」ではなく 上東門院の「故実」への回帰なのでは?
返信先:@hhttuuyyuu(*´ω`*)またまたでました「ほとときす」。歌人のみなさん、よっっぽどこの鳥が好きだったんでしょう。 それにしても白河院といえば白河上皇。絶大な権力を誇ったハズなのに「なつかないホトトギスのように意中の女性が来ないのを、ただただひたすら待ってまス」。この歌はやけに切ないですねぇ。
くずし字を読んでみましょう! 翻刻は代替テキスト(ALT)にあります。 新古今和歌集 巻第三 夏歌 198番歌 白河院御哥 (内閣文庫蔵新古今和歌集) #毎日新古今 pic.twitter.com/uKoMUCosgD
「平清盛」家盛、死去。清盛に、故・白河院の御落胤説があったのは事実ですが、実際のところはわかりません。当時は、DNA鑑定など、当然ありませんし。家盛の死で、平家一門は揺れます。家盛の死は、清盛のせいだと言い放つ者もいました。清盛が、気の毒になりましたよ。😭
今さらの大河の平清盛、5話目まで視聴しているが、たまこさま......無垢で悪気がないことは時として罪なことだよ......演じられている檀れいさまがまたお美しくて可愛らしいのが尚更恐ろしい......2話で退場された白河院の因果が巡る
返信先:@you_get_miko46話「頼朝挙兵」ですね この世の頂きとは何もない闇の世界だった 清盛は実父・白河院のようになってしまった 戦うべき相手もなく武士の理想の姿も見失った彼は、ただ「助けてくれ」と言いながら這いずり回るしかできなくなってしまった……