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蝦夷とは何だったのか? という深遠な謎が出来るな… 天孫も和に降臨してるから別の土地から渡って来たという問題も出て来るし ネトウヨはよくワカラン
相手が例えその道のエキスパートでも、大学の教授でも、その道の研究者でも、著作や論文が何作、何本もある人でも、ネットで聞いた誰も信じないアホな説を上から嘲笑気味に教授する。恐れを知らないというか、ある意味フェアな新米アイヌヘイター。
神亀元年(724年)陸奥国 海道の蝦夷の反乱から今年で1300年 宝亀5年(774年)桃生城(宮城県石巻市)が海道の蝦夷に襲撃された事件から今年で1250年 奈良時代 海道の蝦夷とは何だろう どうして反乱がおきたのだろう 土師器・須恵器など見学(撮影OK図録なし) pic.twitter.com/vlPvSHPZWy
返信先:@Yuji1027M他1人あと東北にいた蝦夷(えみし)は本州南部から移住してきた和人です。 和人でも縄文人の血の濃い薄いがありますが。 松本建速著『蝦夷とは誰か』2011年 「平安時代(794年~)前半期には、岩手秋田北部に住んでいた人たちはほとんどが大和言葉を話す本州南部からの移民だった」
対する蝦夷達も、お互いに理解し合えると分かっている母禮も「もしも、は無い」と彼に強く言う誇りと「蝦夷とは何か」と阿弖流為より先に確認した所の男らしさとか 阿弖流為は強いが故に周りに口数が少なくて焚火の前の饒舌さは清光が引き出してくれたり、すぐに「かっこいいじゃん」で言っちゃったり
2つ目は阿弖流爲が坂上田村麻呂に問いかけたところ 「蝦夷とはなんと心得る!?」 という問いに田村麻呂が 「嫌いじゃ!寒いのは苦手なのだ! 二度と行くものか!」 と返したところ 田村麻呂の人間性が見えたところですごく好き!
母礼に「蝦夷とは何と心得る」と問われて「俺は寒いのが一番嫌いなんだよ!」と答える田村麻呂とても良かった。蝦夷を自分たちとは異なる集団と見るのではなく、土地のことにすり替えて答えるのとても頭が良いと思った。
「蝦夷とはなんと心得る?」って母禮の問いに 「大嫌いだ二度と来るもんか、俺は寒いのが1番嫌いなんだよ」って田村麻呂が言うの 「蝦夷」はその地に住まう人々を揶揄する言葉ななずだけど人間ではなく土地として話すことで 「その土地に住んでるだけで俺とお前らは同じ人間である」 と言ってるのかも
それより「蝦夷とはいったいなんであったのか」とか「蝦夷とはなんと心得る」とか聞くのちょっとすえみつさんテイストな言い回しだなと思った。 当時蝦夷の人たちはその名前をどう思っていたのだろう。 というか田村麻呂の「後の世まで残るもの」とかもかなりメタいセリフだよなあと。
いまだ🪷の沼に足を取られたままなんだけど、今、興味があるのはエミシの語源。いつか陸奥一蓮の戯曲本が出た時に確認したい。朝廷側が阿弖流爲達を「蝦夷」と表記するに対して、阿弖流爲側が自分達の呼称として使うエミシをどのように表記してるかということ。蝦夷とは表記しないんじゃないのか。
東海大学松本建速先生の労作『蝦夷とは誰か』(2011年) 古代東北に住んでいた蝦夷(えみし)は在地の縄文人の子孫ではなく、南から移住してきた馬飼・鉄精錬・水田稲作の技術者集団。 その集団が大和王権と戦ったというのは政治目的で記述された虚構に過ぎないという画期的な研究結果です。 pic.twitter.com/diUSGkNxgD
amazon.co.jp/dp/B000J70BSK/ いま蝦夷論史の全体を振り返ってみて痛感することのひとつに、蝦夷とは何かを問い、論ずる際、それがどんなレベルでの「蝦夷」を問題にするのか、極めて曖昧な場合が多かったということである。 つまり、ひとくちに蝦夷とは何かといっても、およそ次のように意味合いの異なる