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返信先:@sakanoue2758田村将軍が悪路王の配下の鬼を斬ったとされる地が福島と宮城の県境付近にありますね。いつしか源氏に相伝し最後は安達氏に受け継がれましたが霜月騒動で行方不明になりましたね。
おはようごダイハツ🚗 水曜日 #岐阜市 のお天気 ✅1293年の今日 内管領『平頼綱』の忌日 得宗家に仕える御内人だった頼綱は、有力御家人の安達泰盛と対立し霜月騒動により実権を掌握。専制支配を行うも執権北条貞時により討伐(平禅門の乱)されました。 #企業公式が毎朝地元の天気を言い合う pic.twitter.com/UTRZKUus4Z
鎌倉時代後期〜末期に北条得宗家の権力が最高潮に達していたというのは意外である。御家人が元寇で疲弊したあげく、霜月騒動もあって、相対的に北条得宗家が強くなった面もあるのかな。ただ、鎌倉幕府の基盤はあくまで御家人であり、その信頼を失った時点で幕府の命脈は尽きたと言える。 #日本史学習
鎌倉時代後期、北条得宗家の家臣(御内人)の筆頭である平頼綱と、従来から幕府に仕えてきた御家人の代表格である安達泰盛が争う霜月騒動が起こった。これに頼綱が勝利したことで御家人の力は弱まり、北条得宗家が絶大な権力を握ることとなったが、御家人の心は鎌倉幕府から離れていった。 #日本史学習
キャプションでは、底が抜けて水面の満月が消えたことで、無常を悟ったとあった。解脱だね〜👀 現在この逸話伝わる「底脱の井」が鎌倉の海蔵寺にある。鎌倉十井の一つ 父泰盛は霜月騒動で滅ぼされた人なんだけど、霜月騒動ってなんだっけー😭 旦那さんは、金沢文庫を創った北条実時の息子の顕家! pic.twitter.com/uWsGV86wzu
とーけんらんぶがヒットしたせいで間違ったとーけんサイトの歴史記述が受容されて安達が霜月騒動で滅んだと思われてるのめちゃくちゃ遺憾だが、その話同士にしたら別にいいやろと言われてしまった、どちらにせよ鎌倉幕府とともに滅んでますからね
ただちょっと難しいのがこの頃の波越家(斯波)は足利上総三郎(吉良)と同様に霜月騒動で安達方について失脚していたりする。 この時期の捉え方として斯波のスペアとして波越が台頭、吉良のスペアとして今川が台頭して婚姻関係を結んだとすれば今川波越(尾張今川)が出来たという事になるかも知れない。
安達組好きすぎて一時期霜月騒動ばっかり調べてたことあったなぁ。 主と共に墓に入れられて敵勢力に暴かれた鶴丸と、主が源氏の末裔と主張したことで攻め滅ぼされた上に平家の象徴である赤布を纏って奉納された髭切。 安達泰盛さんが兄者で自害した説あるの知ったとき「まじか🤦🏻♀️」ってなった
田中大喜編著『図説 鎌倉幕府』 日本に初めて誕生した幕府の全貌を、豊富な図版とともに解説。将軍・得宗・地頭・御成敗式目・訴訟制度・徳政令・宝治合戦・文永の役・霜月騒動などトピックごとに解説しているので、辞書的にも使えます。中学・高校教員の教材にも最適です。 ebisukosyo.co.jp/item/594/ pic.twitter.com/CydR8kx7Df
返信先:@Bando0817ただ安達泰盛は二月騒動のドサクサで御内人を何人か粛清しているので因果応報といえるかもしれません。あるいはもっと徹底的に粛清していれば回避できたかもしれませんがそれでは得宗の直臣が誰もいなくなってしまうので流石に無理でしょうね。あり得るとすれば霜月騒動で泰盛が頼綱を討つしか。
返信先:@sanmi_cyusyo右上が、泰盛の子で、少弐景資と共に岩門城で討死した安達盛宗。 右下が、泰盛の異母弟で、歌人としても知られ、霜月騒動で兄と共に討死した安達長景です。 左2人が知られてるのに、この2人は意外と知名度低いのはなんとも悲しいものです…
返信先:@40341700a995431右上は、安達泰盛の子・安達盛宗です。 少弐景資とともに岩門城で討死してます。 右下は、安達泰盛の異母弟・安達長景です。 この人も霜月騒動で兄とともに討死してます。
返信先:@Bando0817右下は同じく安達陸奥入道殿のご舎弟で後に霜月騒動で討ち死にした長景殿、これは五郎殿が陸奥入道殿より馬を賜っているのを見守っている場面 まぁやはり絵詞は五郎殿の世話になった方々に対する報謝鎮魂の思いの表れだったんだなぁと思うものではありまする。
返信先:@wnnyynnyywそうらしいですね!この著書によれば、霜月騒動後に平頼綱ら得宗被官らが、持明院統の皇太子を皇位につけたことにより、ショックで亀山が隠居し、挫折したんですよね😭😭
#大活躍したが不幸な最期を迎えた武将 少弐景資 蒙古を2度撃退した英雄 文永の役で、大将軍として九州御家人の指揮をとり、蒙古軍の副司令官・劉復亨を射止める活躍を見せたという。 その7年後の弘安の役でも活躍したが、その後の霜月騒動の際、安達盛宗と挙兵し、兄・経資の追討を受け討死した。 pic.twitter.com/7Zq2hIpQIA
鶴丸国永についての記述がある最古の刀剣書「鍛冶名字考」(1452年)には、「鶴丸国永が霜月騒動で多くの人を斬った」との記述があります。 鶴丸国永が滅びゆく主とともに戦って、赤く染まって鶴らしくなったいう伝説が、室町時代にはあったのですよ……かっこよすぎじゃないですか。 pic.twitter.com/mkWsHyiTZA