- すべて
- 画像・動画
並べ替え:新着順
返信先:@naruseyanoken1昨年訪れた東叡山輪王寺の山門。近くには江戸城の鬼門、徳川家所縁の寛永寺があり上野戦争で彰義隊に向けて新政府軍の放ったアームストロング砲の弾痕が今も残ります。 pic.twitter.com/MIxRgQ8EX3
彰義隊戦死者碑 戊辰戦争で江戸で抗戦した佐幕派の隊鳥羽、伏見の戦に敗れた徳川慶喜公は江戸へ帰り,上野寛永寺に謹慎した慶喜公側近の旧幕臣らを中心とする強硬派約800人は維新軍に対して徹底好戦、尊王恭順有志会に集まり,やがて1868年3月16日彰義隊を結成したが、上野戦争で大敗してしまった。 pic.twitter.com/cD5FXVUEVX
上野戦争で彰義隊は俗説と異なり善戦したというツイを見たが、幕末に砲兵戦力を持たない側の善戦など限定的なものであり、新政府軍側の誤算は彰義隊の強さでは無く悪路で展開が遅れて敗走する彰義隊の脱出を許してしまった事だ。俗説を否定するのは快感だろうが、別の俗説に飛び込んでたら世話は無い。
本日慶応4年5月18日は東征大総督の有栖川宮熾仁親王は、薩摩藩兵に上野戦争での奮闘の褒美品として、酒7樽と豚2頭を贈りました。また19日午前9時から、彰義隊討伐に従軍した兵の閲兵式を江戸城で行うと通知しました。皆様大事なくお過ごし下さい。 pic.twitter.com/W3K6aXlf0V
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え 上野戦争で鎧袖一触で蹴散らされた、官軍の銃砲に対して刀槍で立ち向かい粉砕されたとされる彰義隊。 実際は、寛永寺の地形を活かして胸壁も設けて、旧式とはいえ銃砲を装備し、午前七時の開戦から正午までは防御側が優勢だった。 (続く)
天晴れなり!新選組は不滅だ!!フォーーー!!」と、涙ながらに熱いエールを送り、近くのお地蔵様に供えられていた菓子を食いながら「俺も不滅だ!」と言い、颯爽とどこかに駆け去っていった。上野戦争で戦死したとも、馬賊になったとも言われると最終回で説明されており、本編でもまさから「薩長の世の
(現在の千葉県野田市山崎)にて靖兵隊を離れた。上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで1868年7月6日(慶応4年5月17日)に本所猿江にあった旗本神保氏(神保相徳)の屋敷(現在は江東区森下)で死亡したとされる。享年29。
本日は史実の原田左之助さんの命日 今年も縁の場所へ行ってきました 彰義隊の墓(上野公園) 15 日が上野戦争の日。彰義隊の法要があり、お花が御供えされていました。 pic.twitter.com/DUS5gAPkRQ
慶応4年5/17 #新選組 十番隊組長 #原田左之助 が亡くなったと言われています 2日前の上野戦争で受けた傷が原因とも 享年29歳 喧嘩早かったそうですが 新選組では小荷駄雑具方と言う経理関係を携わったり 子煩悩だったとも伝わっています 実は生きていて馬賊になった説もありますが果たして…? pic.twitter.com/7VQUzYvT4H
慶應四年五月十五日の上野戦争の翌日「勝海舟」の氷川邸に書状が投げ入れられた。 彰義隊士を忠義の士と讃え、屍を早く丁重に葬れと記す。 この女性は彰義隊に参加した「木城安太郎」の妻「花野」で、安太郎は上野戦争で九死に一生を得たあと、静岡県で漢籍の塾を開いた。大塚の本伝寺に墓所がある。 pic.twitter.com/vpZFMnbdc3
慶応四年五月十七日(1868日7月6日) 新選組副長助勤・原田左之助死去 享年29 五月十五日の上野戦争で負傷した原田は神保山城守相徳屋敷へ運ばれたが2日後に死亡したとされている。 #原田左之助 #新選組 shinsengumi1863.net/2022/05/harada…
おはようございます☀️ 1868年5月17日(旧暦)、原田左之助が没。 伊予松山藩の生まれで脱藩し、大坂で谷万太郎に種田流槍術を学んだ。 江戸で近藤勇らと出会い、後に新撰組十番隊組長を務めた。 戊辰戦争では鳥羽・伏見や甲州勝沼の戦いの後、上野戦争で負傷して死去したと伝わる。 本日も良い1日を✨️ pic.twitter.com/bNmAYi2tWa
おはよう、土方だ 5/17は #原田左之助旧暦命日 と言われる 5/15の上野戦争で彰義隊の一員として戦い、この日負った怪我が元で死んだそうだ 槍の名手で、ちと短気だが小荷駄方務める緻密さも併せ持つ男だった 会津へ向かう!と別れたのに どうして彰義隊に居たのか俺は知らない…… 今日も宜しく頼むな
おはよう、土方だ 慶応4(1868)年5月15日 上野の山が戦場となる 俺らと袂別った原田が、永倉とも別れて この戦に加わってたらしいが、何故そうなったのかは分からない 彰義隊と薩長軍の戦いは1日にして終わり……大雨の中、彰義隊は壊滅した ……原田はどうったんかな 今日も宜しく頼むぜ
上野戦争の日だったので前に描いた白野夏雲さんを再び。 幕府歩兵の輜重隊を預かり浅草に駐屯、上野戦争終了後自隊に敗残兵を含めた約300名をまとめ夜堂々と江戸から撤退。最後まで戦うのも良しですが頓智で全員無事に故郷に帰した頭取すてきです👍 twitter.com/ambujam10/stat…
真夜中に呟くはずだった鉛筆落描きは歩兵差図役頭取・白野耕作(のち夏雲)さんと浅草御蔵警備の幕府歩兵の皆さんin新宿口。 日中に終了した上野戦争のため新政府軍による厳重警備の夜の新宿口を堂々と太鼓を鳴らして通行し無事甲州路へ脱出。 旧主・岩瀬忠震さんに愛された剽軽者らしい方法でした♪
戦い自体は1日で終結した上野戦争 彰義隊が敗北したことで、上野寛永寺山主 輪王寺宮様は釜さんの艦隊で北へ落ち延び 奥羽越列藩同盟の旗頭となられる “彰義隊”(著 吉村昭)を紹介しとこう 俺が離れた後の江戸を彰義隊が如何に守ったか 小説だが史実をよく理解され描かれてんで、一読あれ #副長の書棚 pic.twitter.com/LvVV67qv0C
おはよう、土方だ 慶応4(1868)年5月15日 上野の山が戦場となる 俺らと袂別った原田が、永倉とも別れて この戦に加わってたらしいが、何故そうなったのかは分からない 彰義隊と薩長軍の戦いは1日にして終わり……大雨の中、彰義隊は壊滅した ……原田はどうったんかな 今日も宜しく頼むぜ
慶応4年5月15日 上野戦争 寛永寺一帯に篭ってた彰義隊が、新政府軍に殲滅された。新政府軍がアームストロング砲を持ってたことによって勝敗が変わったのかと思う。俺は既に此岸にいた頃だ。左之さんもこの場にいて、大怪我したって言われて生死不明。 春にお参りしたけど、今日も心で手を合わせよう pic.twitter.com/RhgoKBLMe0
🤠大村さんは方程式でも解くように四境戦争や上野戦争を片付けます。 戊辰終了後に、次は薩摩や自分の本藩長州が叛乱を起こすと予見します。 志士上がりでは無いですが、武士階級そのものを潰すべきとの明確な革命意識を持っている人物でした。 鬼謀の人は司馬先生が短篇で大村さんを評した言葉です。
🤠5月15日は大きな出来事が多いですね。 沖縄県が本土復帰、彰義隊による上野戦争。そして五.一五事件。 上野戦争❗は語る事が出来ますが…五.一五事件は近代史で現在にも通ずるものが有るし、何かをポストするのがとても難しいです… 沖縄県にはまだ行った事は有りませんが、行ってみたいですね✨
(今日は何の日?)今日、5月15日(慶応4年、西暦1868年)は、新政府軍が上野に籠もる彰義隊に攻撃を加えた日です(上野戦争)。ふーむ。当たり前ですが、徳川にも忠臣は沢山いた。そういうことですよね。この戦いに加わらなかった、旧幕臣の者たちの胸中は、とても複雑だったと思います。
返信先:@hiji_toshichan5月15日は彰義隊と薩長による上野戦争の起きた日でしたね 頭取 渋沢栄一従兄 成一郎の名を知ったのは「青天を衝け」でした 彰義隊に加わった左之助さん 戦死したとも生き延びて大陸で馬賊になったとも
令和六年五月十五日・彰義隊「157回忌」墓前慰霊祭があったそうです🕯ムラタさんのX(旧ツイッターより)twitter.com/tgClLC8d4bQ48H… 画像は、上野戦争・薩摩藩 城下三番小隊 隊長 篠原国幹之圖 pic.twitter.com/ISuzcyTRCu
慶応4年の今日(5月15日)、上野戦争が勃発します。無血開城が成立し、江戸の街が戦場になることはないと思われてました。しかし薩長勢に不満を持つ血気盛んな連中(彰義隊)が反乱を起こします。この時薩長勢を指揮したのは、今も靖国神社に立派な像が建つ大村益次郎。写真は当時の弾痕が残る黒門です pic.twitter.com/v7Z28rcCwG
上野公園ぶらぶらしてまして、寛永寺の旧本坊表門へ。上野戦争の弾痕が生々しいです。 関東に引っ越してきて随分経ちますが、もっと早く来たらよかったよ。 pic.twitter.com/d2pSWVJcFo