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返信先:@zibumitunari島津家で治部殿に近かった伊集院忠棟殿が誅殺(斬殺)され、庄内の乱が起きてしまった現実がありますからね 島津が強いのイメージを決定づけたのは耳川・沖田畷・戸次川の戦いと、相手側のやらかしも多い面はありそう
九州征伐で島津四兄弟の紐帯は崩れ #島津義久 は #島津義弘 に家督を譲るも実権を離さず恭順に抗う歳久を切腹させ #島津家久 は謎の突然死。更に豊臣に与し独立を図る家老伊集院忠棟を誅殺して庄内の乱を引起し朝鮮出兵に抗う外城地頭の梅北一揆も起って慢性的内乱に陥ります pic.x.com/PNSYBGmJw1
肝付兼篤 1562〜1609大隅国(現鹿児島県東部) 島津家家臣。肝付兼盛の子。兄の死後、家督を継ぐが、伊集院忠棟の死後、主家の承認を得て、肝付家の家督を継承に返り咲いた。後に、庄内の乱(1599)の鎮圧にも参戦。1609年、主君・島津家久に従い、琉球(現沖縄県他)に出陣。帰国後、病死した。 pic.x.com/lno6NyWNEi
これに対し島津氏は日向北部から豊後へと侵略を目論み総大将島津忠長とし島津以久や伊集院忠棟らに兵七千余りを与えて石城へと送り伊東方は六百余りで迎え撃った 石城は三方に急流を備え背後には険しい山を背負った天然の要害であり攻城は困難を極めた
肝付兼篤 肝付兼盛の子 兄の肝付兼寛が嗣子のないまま没し肝付家の家督は島津家重臣伊集院忠棟の強い求めで忠棟の三男兼三が相続する事となるが兼三が実父忠棟の誅殺事件により肝付家を離れた事で親族間の相談により
志和池城✨ しわち 北原氏の城だったが島津氏により落城。その後伊集院氏が都城に入り支城となるが、伊集院忠棟が島津忠恒に斬殺された後起こった庄内の乱で島津氏の兵糧攻めで落城 かなり改変されているが新城あたりもなんとなく地形が遺っている R7春 宮崎県都城市 #宮崎県の城 pic.x.com/WYcZGVmCp3
天正十五年(1587)五月九日島津義弘見参 義久降伏後も弟義弘は抵抗したが秀長陣中に降伏 太閤は義弘に大隅、二男久保(朝鮮陣没)に「日向国真幸院付一郡」も与え大隅日向一郡も島津領となる まず降伏した伊集院忠棟は義久と連携したとされ大隅一郡を領し豊臣取次として義弘と共に独立する豊臣大名となる pic.x.com/m4ndaRn7Qk x.com/jsyl37gD03IA/s…