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【拡散希望】 来る5月25日・6月29日の二日間、滋賀県守山市の指定文化財「大庄屋諏訪屋敷」にて撮影講座を開催いたします。 申し込みは大庄屋諏訪屋敷(077-516-8160)まで。 尚、講座は二日間で一講座となりますので、両日ご参加できる方が対象です。 moriyamabuntai.com/suwake/ pic.twitter.com/tS9uqbVwT4
福崎の泊りは「播磨福崎 蔵書の館」、県指定重要有形文化財「旧大庄屋三木家住宅」を宿泊施設として改築されています。私達が泊まったのは「内蔵」という部屋で元禄時代の築造、文書などを収めていた蔵とのことです。… pic.twitter.com/dpPCIoXz7V
#まるまる舞鶴今日は何の日 1814年(文化11)5月9日 藩、船改めを実施して船体に焼印を押し、その船の乗組み人数に応じた船運上を定める 船運上は毎暮上納するよう令する。 船約が「船改」と呼ばれ、由良川川上の北有路村の有力百姓が就任し、川口上組大庄屋が兼帯していたこともあります。
返信先:@naruseyanoken1うちのご先祖は宇喜多からかんじょうをもらっていたといいます本物かは知りませんが備前の郷士でのちしらふだになるまで大庄屋を務めてました。戦国大名松田の軍師として備前にきたみたいです
返信先:@shoemaker_levy自治体史研究員時代に年2回、三重大の塚本ゼミと大庄屋文書の調査に出向いてました。大小様々なネタが豊富で大変に面白い文書群です。 酔っぱらいの行跡が実際の町を歩きながら「この辺で女性に絡んで…」と再現できたりします。
「青森から約18年半かけて熊野古道を訪れた盲目の尼僧の記録」とあるのは下記で紹介された事例と思われます。尾鷲組大庄屋文書 塚本明「江戸時代の巡礼たちの諸相―熊野古道沿いの資料から」『2013年度 四国遍路と世界の巡礼 公開講演会・公開シンポジウムプロシーディングス』 henro.ll.ehime-u.ac.jp/post-236/
本日も周遊日和でした♪ 3匹の蝶に導かれるように、ビックリマンと寄り道です⭐️ 大庄屋諏訪家屋敷☀️ 茶室、土蔵、苔のむす庭園など、大庄屋の屋敷建造物が当時の形で残されています。… pic.twitter.com/W0AmMXFN5K
「安居院義道を作ってわかったのは その地域の有力者が進んで喜んで共鳴して動かないとその地域に浸透しないということ 掛川の大庄屋岡田佐平治が安居院先生に共感し自ら実践し更に近隣の地域の有力者に働きかけて遠州一円に広まった 安居院先生顕彰もこの方法でやりましょう」
返信先:@take_housing私も以前はよく行ってました。犬山駅前で飲むのですが、そこに職員の方が来て聞いた話では、帝国ホテルの備品を盗まれると嘆いていました。鳥羽の大庄屋、二見の賓日館、どちらも兎の釘隠しが盗まれたと聞かされました。私のような詳細写真を撮る人間は怪しまれそうで嫌な思いです
うちの地元の旧大庄屋の一つである青井家も江戸期は名字帯刀を許されていたのだが、本来の青の字がこちらの字となっている。
戦争で亡くなった方々の遺書などを読む機会が多くあるが、たかだか80年前の日本人が書いた文章がそのまま読めず現代語訳を必要とするのは由々しき事態だ。 旧字体の廃止、当用漢字の策定など、知らず知らずのうちに日本人が日本語を失っている。…
信州・安曇野の農業用水「拾ヶ堰」について勉強中。 江戸後期にこの全長15kmもの人工河川が作られたことで、飢えに苦しんだ安曇野が米どころになった。 庄屋・大庄屋たちが自ら人生を懸け、私財を投げ打ち、地域のために指揮をとり掘った。当時のリーダーたちは凄かった… amazon.co.jp/dp/4635320138/…
石川県の大庄屋の長男。漢文・数学に秀でるも在籍校を二度中退。母の支えで帝大哲学科選科に入学。卒業後は恩師による教職の斡旋に頼り哲学の研究を継続。京大助教時代に『善の研究』を出版。文学博士と念願の哲学の教授職を獲得。栄光の影には相次ぐ家族の死も。晩年は京都と鎌倉で過ごし75歳で失命。
郵便局には客室が2部屋。 他の客室やレストランは、江戸時代に建立された大庄屋の三木家住宅をリノベーション。 兵庫県福崎市 | NIPPONIA 播磨福崎蔵書の館 nipponia-fukusaki.jp pic.twitter.com/6t20gpq2B8
#端午の節句 は、春と夏の節目に当たる5月5日に、邪気を払い健康を保つための儀礼として、中国から伝わりました。 平安時代に貴族社会に定着し、日本で独自の発展を遂げました。 大庄屋三木家住宅では、今年も「五月人形展」を開催しています。 ぜひ、お越しください。 #福崎町 #三木家住宅 pic.twitter.com/eUzfRXp65u
#美濃地屋敷 入り口すぐの石 下の者が来た時はここに膝をついて礼をし中に入っていったそうで、石に足の跡が残っていると言う説明を聞きました さすが大庄屋 pic.twitter.com/Ou1BZk6IiG
#美濃地屋敷 屋内 茅葺き屋根の虫対策、土間のかまどで火をたいてました 梁は赤松で10メートル級らしいです 立派なものでした とっても広い 大庄屋の家 pic.twitter.com/u7mbvccgaP
「時国家では襖をはりかえるとき、以前の襖紙を保存していた。網野はそれに注目」「上時国家などにのこされた襖紙文書には、大庄屋である時国家が、貧乏人であるはずの「頭振」から借金をしていたことがわかった」 日本史をかきかえた網野善彦の原点「時国家」|藤井満 note.com/fujiiman/n/n38…
江戸中期建築の大庄屋の屋敷 なのだが畳部屋のスペースを広くしただけで、各所に装飾等がある訳ではない 江戸期の純日本建築は西洋と比べ、どこも同じ様な物で殿様も庄屋も内装がほぼ同じ 身分制度に厳しくありながら、なぜこれほど内装に格差がなかったのか不思議だ いや低級身分の家は解るが
#能登半島観光情報2024 #今おすすめの能登 📍#志賀町 「平家」 江戸時代中期に作られた石川県の指定文化財 (金沢より車で約1時間) 総面積が6000坪にも及ぶ広大な屋敷を有しています。 hot-ishikawa.jp/spot/detail_57… ………………………………… 休業日は不定休となっておりますのでお気をつけください🙇♀️
陶器城跡近くにある、東兒山家住宅(兒山邸)。兒山家は、中世以来の旧家で江戸時代は大庄屋で小出藩代官も務めてたとのこと。この屋敷は分家の東兒山家の屋敷。主屋は江戸時代後期の建築で登録有形文化財。 pic.twitter.com/Mjw4TSvZp8
掛川の岡田佐平治は大庄屋で難村立直しも任された 下石田での報徳流行を聞き 先生宿泊の際会いに行った 先生「次の一首につき考えを言え 梅の木は根も梅なれば花も梅 実も梅なれば枝も葉も梅 岡田「大道の要を得心し真実に行を勤める時 外も内も誠なる事」 先生「その心得なら報徳の話をしよう」 pic.twitter.com/NEFLAl48Jw
江戸時代の中頃の話しならそうなんですが戦国時代となると農民でも帯刀してるし身分の流動性は結構曖昧。。。国人領主や地侍とかは江戸時代なら大庄屋。。。本百姓。。。郷士とか?村単位で武装もしてるし村が強ければ関所で金も取る。本来なら幕府なり朝廷の利権。戦国時代は結構ハード。
そもそも領主の方針や領地の規模にもよるだろうけど、帯刀できる身分の人間が何割くらいで、そのうちのどのくらいが最前線に出るんだろうね? 武士と農民の人口比と、戦の動員数と、その領地の総人口がわかれば割り出せそうだけど。 最前線は徴兵された農民に竹槍とかで固めていたのでは。
#まるまる舞鶴今日は何の日 1777年(安永6)4月 大庄屋、木履御免となる この御免は、安永年中に城内で大庄屋が足駄で中小姓に礼をした際、足駄を脱ぐよう咎められ口論になったことが発端です。大庄屋は、藩士と同席し能楽拝見を許されたこと、遠方の大庄屋は乗馬で出仕したことを申し立てています
#まるまる舞鶴今日は何の日 1827年(文政10)1月25日 藩、雨天の節、村々役人が下駄懸けにて役所へ罷り出ることを認める(寛政年中木履懸け差止め) この件は、寛政期から続いた庄屋集団の願であり、町役人との差別や、庄屋の一斉退役などを口にして主張を通しました。
こんにちは、大庄屋三木家住宅です。 本日27日から5月26日(日)まで、「五月人形展」を開催します。 三木家に伝わる武者人形や甲冑飾りなど五月人形を三木家住宅の主屋に飾ります。 ぜひ、お越しください。 #福崎町 #三木家住宅 pic.twitter.com/KqXWoOCKSm