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名字は武家に興り12世紀の摂関家分裂で公家に及びますが牛車印に始まる #家紋 は平安時代から。創始者藤原実季の三つ巴紋は子々孫々受継がれ元老 #西園寺公望 へ。皇室の #菊花紋 は承久の乱の後鳥羽上皇以来。戦前の皇国史観で禁忌とされるも昨今何故か右翼の無断借用が横行 pic.twitter.com/mOm5OES2lu
返信先:@Uij0trDLahjYQx4…そうなんだよね。隠岐の島に流された後醍醐天皇、後鳥羽上皇が立ち寄ったようです。県境の岡山県側に後鳥羽上皇の読んだ歌碑がありました…。何とも虚しさを感じました。隠岐に流される際、出雲街道を行脚したようですよ。 pic.twitter.com/ZNaQ8JLvTs
返信先:@__chocolatecho承久の乱の時、後鳥羽上皇と藤原秀郷擁する官軍は北条義時擁する幕府軍を本拠地である京目下の宇治川のほとりで迎え撃ち首都防衛に失敗した前例があるにも関わらず、大阪冬の陣の際も豊臣軍はうって出ずに大阪周辺で野戦をすることを選択したと思いますか?
返信先:@minto_hentai他1人他にも 1180年は源頼朝が挙兵したので、平氏に対抗する勢力ができたということで幕府成立とする説。 1221年は承久の乱で幕府に反抗する後鳥羽上皇が敗れ、それまで朝廷の影響力が強かった西国にも幕府の影響力が及んだということで幕府成立とする説。 があります。
返信先:@ft9CTdKhZv34988他1人1221年に承久の乱で幕府に反抗する後鳥羽上皇の軍が敗れ、これまで朝廷の影響力が強かった西国にも支配が及んだため幕府成立とする説。 があります。
返信先:@Uij0trDLahjYQx4謂れは凄そうです…。金が出る地域なのは分かりますが、後醍醐天皇、後鳥羽上皇のこと、運気もアップ、商売繁盛…するなど色々ご利益がありそうです。京都の御金神社とセットでどうぞ!鳥取県でもかなり西部です。
#好きな大河ドラマにもう1話追加するとしたら #鎌倉殿の13人 「異界にて」 後鳥羽上皇の島流し後の生活。「ここも悪くないのう」とか言いながらモリモリご飯食べたり、釣りなどに興じてキャッキャしてる回。
日本史の教科書に出てくる後鳥羽上皇に関する展示がある後鳥羽院資料館と後鳥羽上皇の面倒を見た村上家についての村上家資料館へ。 海士町と関西圏とのつながり、北前船あたりを深掘りすれば海士町散策がより楽しめると思います。 村上家と関係ある水無瀬家の大阪の水無瀬神宮には行きたい。 pic.twitter.com/5h13utpTBp
読んだ~ 『隠岐伝説殺人事件』内田 康夫 うーんおもしろかった! 浅見光彦、いつも中盤くらいまでもったいぶって読むんだけど、途中から先が気になり一気読みになっちゃう。後鳥羽上皇の祟りです。 作者さん、途中まで自分も犯人が誰かわからないまま書いている、と後書きにあり、興味深かった。 pic.twitter.com/7DrlKlfqQi
⇨後鳥羽上皇は水無瀬の地をこよなく愛しました。隠岐に流された後も水無瀬のことを思い出しておられました。野口先生の紹介された↓には、上皇の想いが滲み出ています。 twitter.com/rokuhara12212/…
水無瀬に対する後鳥羽院の遺言(暦仁2年2月10日「後鳥羽上皇書状案」『大日本史料』)。 「水無瀬は昔から心を深くとめたところである。心して人に荒らされないように、地頭を置いたり、武士の入部をとどめなさい。自分が世を去った後も、天をかけて見守っている。よくよくつつしむべきである」
⇨中世の京都が「巨大都市複合体<コンプレックス>」という広大な都市圏を造っていたこと、その中で歴代の院が「院政王権都市」を創設していったこと、後鳥羽上皇の水無瀬殿もこの院政王権都市として評価できることを述べました。今後も「院政王権都市水無瀬」の意義を強調していきたいです。 pic.twitter.com/IUdbAK3Xt6
水無瀬に対する後鳥羽院の遺言(暦仁2年2月10日「後鳥羽上皇書状案」『大日本史料』)。 「水無瀬は昔から心を深くとめたところである。心して人に荒らされないように、地頭を置いたり、武士の入部をとどめなさい。自分が世を去った後も、天をかけて見守っている。よくよくつつしむべきである」 pic.twitter.com/deC7xiITeX
「後鳥羽上皇を負かした鎌倉から来ました」 「鎌倉に滅ぼされた平泉を研究しています」 「足利から来ました。承久の乱ではうちの足利義氏が申し訳ありませんでした」 このシンポジストの皆様のみごとな関係性……😳
きょうはシンポジウム「後鳥羽上皇が造った都市 水無瀬離宮を考える」に行ってきました。 急速に進む開発のために埋蔵文化財大ピンチという大問題に立ち向かうための知識をということで、院政期の権門都市の話や発掘調査で得られた結果の活用法とか、物凄く濃い話を聞いてました。 pic.twitter.com/wWadhfrVxG
国宝『鳥獣人物戯画絵巻』がある石水院 明恵上人が後鳥羽上皇より学問所として賜わった建物とされる。その創建当時は金堂の東に位置していた。鎌倉時代の住宅建築の傑作であり、国宝に指定されている。 令和三年五月三日 pic.twitter.com/4VMO4lZZ9Y
後白河法皇 伊武雅刀 後鳥羽上皇 玉木宏 平知康 ムロツヨシ 丹後局 戸田恵子 藤原兼子 山村紅葉 九条兼実 中井貴一 慈円 博多華丸 土御門通親 野村萬斎 源仲章 染谷将太 藤原秀康 吉原光夫 三浦胤義 細田善彦 九条頼経 鈴木福
返信先:@HIMAWAR45287044他2人別の弟である範頼も謀反の疑いを掛けて排除した結果、世継ぎがまともに残らんかった結果、わずか三代で源氏の将軍は終わり、平氏の流れを持つ北条氏による執権政治が長く続きました。三代将軍の実朝が殺害されたことでその名付け親だった後鳥羽上皇が怒り、承久の乱で北条氏率いる幕府軍に
シンポ実行委員長の高橋昌明・神戸大名誉教授は後鳥羽上皇のマルチ才人ぶりを紹介。鎌倉幕府など恐れるに足りずと考えていたのでしょうか。同志社女子大の山田邦和先生は「権門都市」という考え方を提唱。なるほど、中世の奈良は平城京から興福寺の権門都市=現在の奈良町に移行したのかと納得します。 pic.twitter.com/mRbfZJbXkP
京都府宇治市の世界遺産平等院鳳凰堂。藤原道長息子頼通が1052年創建の京に残る唯一の平安建築と言われる。また、宇治は京の入口で1221年承久の乱でも鎌倉幕府軍大将北条泰時が本陣を構えて後鳥羽上皇軍を打破る。室町時代から滋賀の円満院管理になるも放棄され所有者曖昧が幸運で現在まで残る。 pic.twitter.com/quXDYSSaAz
おはようございます。 安楽寺。門前の青紅葉がすばらしいです。のどか。 元は後鳥羽上皇の時代に、浄土の教えを広める僧侶の方の話を聞いて女官が勝手に出家してしまい、それに激怒した上皇が僧侶たちを斬首と流罪にしてしまったこと(承元の法難)を受け、菩提を弔うために建てられたお寺だそう。 pic.twitter.com/zvHDPzef5G
これらの古墓は五輪塔と呼ばれていて、鎌倉時代のものとされています。 後鳥羽上皇の崩御を哀れんだ地元の人々は陵墓を造り、霊を慰める為に後鳥羽踊りを命日に舞ったそうで、現代に受け継がれています。 pic.twitter.com/ue04RlOv94
御陵の中にはたくさんの古墓が、これは後鳥羽上皇の従者の墓と伝えられています。伝説によると、上皇は配流先の隠岐島を密かに脱出、この地にある金剛福寺に潜伏、そのままここで亡くなりました。 pic.twitter.com/ejHXFVgUVS
丘陵部の頂上に古墳のような場所があります。これは後鳥羽上皇の陵墓と伝えられている所です。後鳥羽上皇は1221年に鎌倉幕府に対して挙兵、承久の乱を起こしますが大敗、隠岐島に配流され、そこで崩御されました。 pic.twitter.com/O0fwF2W1Ke