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亀山社中の社中盟約書に違反したとして責任をとり切腹した近藤長次郎の墓は、当初皓台寺墓地内の高島秋帆家の墓の裏手にひっそりと建てられ、その後小曾根家の墓地内に移設されています。 墓碑には、小曾根邸の離れの屋敷名をとって「梅花書屋氏墓」と記されてます(筆跡は龍馬のものとされている)。 pic.twitter.com/NF8CunG1eq
高知の饅頭屋に生まれた長次郎。学問を好み河田小龍や岩崎弥太郎のもとで学び 江戸で儒学や砲術を学ぶ。勝海舟の門下となり 坂本龍馬と共に #亀山社中 に参画。長州藩のユニオン号購入の際 謝礼金を🇬🇧英留学に使おうとし社中の仲間に発覚後 切腹。 近藤昶次郎(近藤長次郎)顕彰碑 長崎県長崎市栄町7-7
丸岡藩砲台跡を訪問。草深くなる時期に訪れたこの遺構、嘉永5年(1852)丸岡藩が沿岸警備のため築いたもので設計者は藩士で高島秋帆の門人と伝わる栗原源左衛門。弧状に築かれた胸墻に5ヶ所の砲眼が規則的に開けられております。砲眼1ヶ所の石には「嘉永壬子…随栗原…築之…」の文字も。 #1日城主 pic.twitter.com/1STkylFUnG
高島秋帆の弟子の下曽根が弘化4年(1847)に松伯耆守へ伝えた西洋流砲術の秘伝書です。秋帆は天保13年(1842)~嘉永6年(1853)まで捕まっていました。師が獄に入っている間も弟子たちによって西洋流砲術が広められていたことが分かります。 pic.twitter.com/DTZ1zjHHH3
結論:もう一人の先駆者 ➾幕末期、徳丸原に新時代の幕開けを告げる砲声と共に、一人の学者の名が世に馳せました。その名は高島秋帆。 🇳🇱彼は西洋から砲術や兵学を導入した事で、我が国の国防の新戦術を究め、今日板橋の産業や工業にその功績を与え、現在の”高島平”として、彼の名は刻まれました。 終 pic.twitter.com/S9OpUDccUZ
今日は、1841年、幕命により江戸・徳丸原で砲術家・高島秋帆が洋式軍事演習を行った日。この時、歩兵が背負った背嚢(はいのう)は当時「ランドセル」と呼ばれ、後に小学生のシンボルとなって親しまれることに。器 三千里薬品⇒3000ri.jp
補足 秘伝書の最後には、年号とあわせて誰から誰へ伝えたかが書かれています。直接教えた師は署名だけでなく花押や印を押しているのが通例です。押していない人物については直接指導していないと考えられます。この画像の場合、「高島秋帆を師とする下曽根が加藤金平へ伝授した」ことになります。 pic.twitter.com/7gmLqCWGj0
高島秋帆の弟子である下曽根金三郎(信敦)が越後高田藩の加藤金平へ伝えた西洋流砲術の秘伝書です。天保12年(1841)の12月に伝えており、徳丸原での演習から約半年後には弟子が西洋流砲術を伝授していたことが分かります。(~7/28まで展示) pic.twitter.com/74uoYq9BcP
幕末特集:高島秋帆[1798~1866]とは? ➝江戸後期の兵学者で”長崎の町奉行”と称される町の運営を監督する最高役職で、父の協力の下で”日本の西洋流砲術”を構築し、幕末〜明治維新期の軍制改革にも尽力した一人でもあります。 🇳🇱また、彼は蘭学や医学にも関心を寄せていました。 #陸軍史 #高島流砲術 pic.twitter.com/DNmbRg7VhA
天保12年(1841)5月9日、長崎の砲術家の高島秋帆とその弟子たちによる西洋式砲術演習が徳丸原で行われました。戦後、東洋一のマンモス団地が建設された際、高島秋帆の事績から地名を「高島平」と名付けました。写真は高島秋帆とその弟子たちの演習の様子です。 #板橋区 #高島平 #高島秋帆
西洋流火術鉄砲隊保存会と演武 📄高島秋帆を祖とする 高島流砲術愛好家の集まり 高島流を継承し、演武をもって 徳丸ヶ原洋式調練を再現、普及する 活動を行っている ↓ 慶応元年、日野宿に農兵隊に鉄砲隊が 編成され、幹部に対する西洋流鉄砲の 教育調練が開始された縁による 左)パレードの花形 pic.twitter.com/wb5KObSwGG
本日は講演会「高島秋帆と高島平」を開催しました。 高島平の地名の由来になっている高島秋帆について紹介しつつ、板橋と高島秋帆の関りや、今も見ることができる高島秋帆との関りについてお話ししました。ご参加いただきありがとうございます。 #板橋区 #高島平 pic.twitter.com/detyr8h7Uc
江川英龍さま 海防への意識が強く、高島秋帆さまに弟子入りし、高島流砲術を学んでいます。 そしてそれを改良した砲術の普及に務め、彼のもとには川路聖謨さまや佐久間象山さまなど多くの弟子が集まりました。 あらためて言うまでもないのですが、品川台場の設置や韮山反射炉の建造も大きな功績です!
本日、新河岸小を含む高島平の学校や幼稚園のほとんどは開校・開園記念日です。これは高島秋帆が徳丸原で行った西洋式砲術演習の日にあわせています。学校の校章が高島秋帆の家紋でしたり、学校の校歌に秋帆や徳丸原が入っているなど、今も学校を中心に高島秋帆と関連する事柄を見ることができます。 pic.twitter.com/CF3CZ90VCJ
今日は、1841年、幕命により江戸・徳丸原で砲術家・高島秋帆が洋式軍事演習を行った日。この時、歩兵が背負った背嚢(はいのう)は当時「ランドセル」と呼ばれ、後に小学生のシンボルとなって親しまれることに。器 pic.twitter.com/eImI4pVUGz 三千里薬品⇒3000ri.jp
今日は、1841年、幕命により江戸・徳丸原で砲術家・高島秋帆が洋式軍事演習を行った日。この時、歩兵が背負った背嚢(はいのう)は当時「ランドセル」と呼ばれ、後に小学生のシンボルとなって親しまれることに。器 pic.twitter.com/u7tLVG3krk
天保12年(1841)5月9日、長崎の砲術家の高島秋帆とその弟子たちによる西洋式砲術演習が徳丸原で行われました。戦後、東洋一のマンモス団地が建設された際、高島秋帆の事績から地名を「高島平」と名付けました。写真は高島秋帆とその弟子たちの演習の様子です。 #板橋区 #高島平 #高島秋帆 pic.twitter.com/pkFUTewJTB
今日5月9日(1841年)は幕命により江戸・徳丸原で砲術家・高島秋帆が洋式軍事演習を行った日 板橋区高島平の高島は高島秋帆に因んでいるそうですねぇ pic.twitter.com/53ntnmD2sR
アルファポリスの投稿小説「転生した無名藩士、幕末の動乱を生き抜く」が面白い!! alphapolis.co.jp/novel/14931263… #アルファポリス 第104話 『高島秋帆、毅然とした態度で幕閣と相見え、後進に道を託す』(1848/10/22)
『転生した無名藩士、幕末の動乱を生き抜く』 / 第104話 『高島秋帆、毅然とした態度で幕閣と相見え、後進に道を託す』(1848/10/22) ncode.syosetu.com/n3487iq/106/ #narou #narouN3487IQ
第104話 『高島秋帆、毅然とした態度で幕閣と相見え、後進に道を託す』(1848/10/22) 『転生した無名藩士、幕末の動乱を生き抜く』/姜維信繁 - カクヨム kakuyomu.jp/works/16818023…
天保12年(1841)5月7日、砲術家の高島秋帆とその弟子たちは徳丸原(現、高島平一帯)で西洋式砲術演習を行うため本陣(休憩所)である松月院へ到着。8日は予行演習を行ったとされます。 #板橋区 #高島平 pic.twitter.com/ddFCJm1iHi
赤塚 松月院。新東京八名勝の一つ。江戸時代の砲術家・高島秋帆ゆかりの地として大砲の記念碑も。 霜月仲冬としては、これで新東京八名勝の踏破達成(笑) #板橋区 #新東京八名勝 pic.twitter.com/EqQ7Wiqih8
#板橋区立郷土資料館 、行ってきました。コレクション展の「砲術資料から読み解く高島秋帆の弟子たち」は、常設展示のところに小さめのガラスケースで4つ。 pic.twitter.com/E23QiooOuq