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返信先:@ucSgTOkopOZDlzI古事記+日本書紀を「記紀」と言います どういうわけか戦後日本では、 「記紀は所詮神話!史料価値ゼロ!」 と決めつけられるのに、魏志倭人伝、 魏より前の時代を三国志よりのちに編纂された後漢書東夷伝の史料価値は全く疑われません
ちなみに前述の怪文書を投稿した歴史ライターは、韓民族の始祖を魏書東夷伝に登場する「夫餘」や「濊貊」などではなくそれらと言語系統が異なると記され現在でも民族系統が判然としない「挹婁」だと勘違いしたまま韓国史を「解説」してしまうほど世界史の知識に乏しい残念な人物でもあったようです。
後漢書東夷伝は魏志倭人伝より150年も後に編まれたもの、しかも全然違う国によって、王朝が変われば別の国だから、で時代を特定できない金印がどうたらこうたら、それをわざわざ教科書に載せて、自国の出雲国とか吉備国とか神功皇后のことはスルー、どうしても全身タトゥーで裸足の民族にしたいらしい
#日本史の全体の概観 ▶2世紀 (101年〜200年) ・倭の国王が後漢に使いを出す。 ・この時代の出来事は 中国の書物の記録がベースで 日本史上は漢との関わりしか話題がない。 後漢書・東夷伝,ごかんじょ・とういでん ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C… 「107年に倭国王が奴隷を百六十人献上した」
重要事項 ・3世紀末に陳寿が記した三国志「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)が記す卑弥呼が実在したとすれば、没年は正始9年(248年) ・卑弥呼は「倭国の女王」「女王国の女王」、邪馬臺[台]国(壹[壱]は写し誤り)は倭国内で卑弥呼がいた一部 ・3世紀後半に大規模な前方後円墳が出現(箸墓)
大学入って一番驚いたのは、 「邪馬台国論争はもう解決済みです。九州説の学者もいるにはいますが、ちゃんと考古学者を名乗っている学者の9割ぐらいは近畿説です」 と古墳時代の講義で教わったことかも
返信先:@Ikhtiandr_uouo仏教が日本に伝わったのと大和朝廷が仏教を認めたのは分けて考えた方がいい。 漢字もそう。 『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され印綬を与えられた。 漢字の出来る外交官が ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4…
返信先:@Ikhtiandr_uouo公州に何度も行ったけど、先進文化は見えなったなあ。 朝鮮半島で見つかる縄文遺跡や前方後円墳も無視出来ない。 そもそも半島の南岸は日本だと中国の書物に書かれている。 魏志韓伝や『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)。 韓国の横槍で任那日本府は消された。 news.yahoo.co.jp/articles/89591…
andokunio.blogspot.com/2018/09/blog-p… 禹歩の足底長が25.6cm、300歩が1里、 1里が76.8m、凡そ短里の長さになる。 九州北東部の物部系神社の鎮座地を追うと 大体「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の記述に合う。実際は1歩が若干短いの🦆 しれない。 因みに箸中山(箸墓)の円型丘の長さは160m。 禹歩でジャスト625歩
返信先:@hoshisora_c>殉葬はそもそもそんな風習やってたかどうかが問題 『後漢書』夫餘国伝【死則有椁無棺。殺人殉葬,多者以百數。】 東洋文庫『東アジア民族誌1正史東夷伝』の訳では 〔夫餘人は〕死ぬと〔その葬具に〕槨を用いるが、棺はない。また人(従者・奴婢など)を殺して殉葬する。多いときには数百人に達する。
返信先:@csagev「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条に 夏后氏についての言及がありますよね。 夏后氏の祖は禹、 山東省には漢代の禹を現した画像石が多く出てるんですよ。 waseda.repo.nii.ac.jp/record/1507/fi… 鳥の眼を持たないとダメですね。 禹と神仙思想、養蚕。青銅器祭祀にも取りれられてますよね。
今日は筑紫野市で『書道家が読む「魏志倭人伝」』講演会に行って来ました 講師の井上悦文さんは書道家で古代史を研究されている方です 中国の陳寿が261年に書いた魏志倭人伝は魏書30巻中の東夷伝の倭人条で、草書で書かれたのを楷書で清書した その過程で、いろいろと誤記が発生した <続く>
返信先:@2HmAEa5XAMvMIa6朝鮮半島で縄文遺跡や前方後円墳が発見されています。 我々の時代には任那日本府がありました。 魏志韓伝や『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)には、朝鮮半島の南岸は日本だと書いてます。 そもそも朝鮮半島は7千年前までほぼ無人でした。 iwate-np.co.jp/pr/prtimes-sto…
返信先:@kneading_cat(韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南は倭と接する。方四千里ばかり。韓は三つに区分される。一つ目は馬韓、二つ目は辰韓、三つ目は弁韓という。) 即ち、朝鮮南岸は倭国。 『後漢書』東夷伝(列伝第七十五) 馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、
歴史総合 No3 水稲耕作 金属器→鉄器、青銅器 環濠集落が増→争いが増加 身分、貧富の差ができ始める No4 金属器 鉄器→日用品、農耕具 青銅器→祭事(銅鐸) 埋葬方法→旧 屈葬、新 伸展葬 No5 漢書地理志→後漢書東夷伝 漢委如国王→国内で有利になるため
画文帯環状乳三神三獣鏡は黄帝の概念を取り入れる前。五斗米道の張魯が亡くなったのは216年だぜ〜魏志倭人伝でなく「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、「魏書」を読もうや〜 森下さんの五斗米道の成立も読んでな〜
東夷伝中の位置づけはよくわかんないし、詳しくはないんだけど 『史記』『漢書』をざっと見る限り、「前主を廃して、あらためて立てる」、あるいは「第一継承権のある人物を差し置いて、次点の人物を立てる」みたいな感じな気がするなあ 通常とは異なるな君主交代を言っているように思える
返信先:@hoshisora_c倭人伝で出てくるのは共立、更立、復立の3つ。更は ①かえる、かわる、あらためる ②こもごも ③つぐ とか 更に とかの意があります。岩波文庫「さらに男王を立てたが」、筑摩「つづいて男王が立ったが」、佐伯書「更に男王を立つるも」。筑摩は壱与は「立てられ」。更の意味からして他動詞的では?
RT 韋昭呉書は紀伝体で全55巻(🍊)と隋志にあるそう。 孫呉の歴史書だから本紀、世家、列伝、志…と続いてたと思う。陳寿がちょー圧縮しちゃってる。裴松之が差し込む注には袁術や陶謙など孫呉以外の人物のものも多い。孫呉版東夷伝なんかもあったかもよ?
返信先:@yogoretori自前の歴史書も作れなくて、後漢書東夷伝に「東の野蛮人が奴隷献上してきたから、印綬授けてやった」と書かれている国が、古代史の何を誇るってんだろう。それに古代に大国だったとしても、今没落してたら意味ない。
俺らが子供の頃は「任那」は倭国領だと教わったが、とんでもない嘘だった。日本書紀には嘘が多い。だから海外の史書もちゃんと利用しなきゃいけないのだが、困った事に百済・新羅・加羅の古代史史料が存在しないのだよな。だから中国の東夷伝を参照する必要があるのだが、ネトウヨはそれをしない。